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清泉女子大学大学院地球市民学専攻「公開セミナー」

テーマ  東ティモール:民族解放闘争・独立・建国を身近に見て
講 師   中村葉子氏(カトリック聖心侍女修道会シスター=東ティモール駐在)
日 時   2014年6月12日〜 18:10〜20:30
場 所   清泉女子大学 本館 大会議室

img_s_photo_nakamura.jpg講師プロフィール

1947年、神奈川県生まれ。カトリック聖心侍女修道会会員。清泉女子大英文科卒。上智大学院神学研究科修士課程、および同文学研究科英米文学修士課程修了。

インドのムンバイとコチで特殊学校勤務。清泉女学院高校、短大などで教育活動。1987年からカトリック正義と平和協議会内で東ティモール問題を担当。日本国内で外国人労働者問題、日雇い労働者問題などに関わる。2003年に東ティモールに赴任、現在に至る。


報告の概要

 東ティモールは東南アジアの小国。450年におよぶポルトガルの植民地支配、3年半の日本軍占領、24年間のインドネシア占領という過酷な外国支配から解放されて、2002年に独立国になった。

 1987年から2003年まで彼らの民族解放闘争に連帯し、国際社会の共謀黙認の中で、小さな東ティモールの民族の自決権行使への道のりがいかに厳しいものであったかを体験した。

 講演では、そうした体験数々を分かち合い、独立後の現在、同国が抱えている課題、特にインドネシアによる侵略と占領の歴史が人々の生活、ひいては国家の建設にいかなる影響を与えているかなどについて報告する。

セミナーの記録

<東ティモール民族解放闘争とは>
 東ティモールは450年間に及ぶポルトガルの植民地支配、24年間のインドネシアによる占領を経て、2002年に独立を果たした新しい国です。地政学的に重要なインドネシアの小スンダ列島の東端に位置しています。国土面積は日本の岩手県位、人口は2012年の統計でおよそ1,210,000人。宗教は96%がカトリック。言語は国語がテトゥン語、公用語がポルトガル語。産業はコーヒー、白檀、海底油田、大理石などです。

 ポルトガル植民地時代にも解放を求める反乱などがありましたが、一民族として他国に対し本格的な解放闘争を展開することになるのは、1974年、ポルトガルのサラザール独裁政権が崩壊し、同国の植民地政策が見直された結果、東ティモールにも独立への道が開けた時のことでした。この動きに「No!」を突きつけたのが隣国インドネシアで、1975年12月7日、東ティモールに全面侵攻し、以来24年間、東ティモールは国際社会の関心を呼ぶことなく、孤独で過酷なインドネシアからの解放闘争を余儀なくされたのでした。

 なぜインドネシアは東ティモールを侵略したのか。様々な理由が考えられますが、当時の世界情勢という視点から見ると、インドネシアが、東ティモール解放闘争の担い手であり社会主義的な「FRETILIN(東ティモール独立革命戦線)」を共産主義者と断定し、地域の安定を脅かす同国の独立は危険だ、アチェその他の独立運動にも影響を及ぼしてインドネシアの統一を乱す、と考えたことが挙げられます。冷戦下、ベトナム戦争で敗北したアメリカは、共産主義の防波堤としてインドネシアを選び、武器売却などを通してインドネシア政府を強力に支援しました。日本の場合はどうかというと、世界でも最大の援助供与国としてインドネシア政府を経済的に支援、つまり間接的に東ティモール侵略を支えたことになります。東ティモールを侵略したもう一つの大きな理由は、ティモール海にある海底油田への権益を得る、ということでした。

 インドネシアによる東ティモール侵略は国連憲章・国際法違反、東ティモール人の民族自決権を認めた世界人権宣言の侵害であり、国連も、インドネシアが主張する「併合」を決して認めませんでした。けれども、資源大国として重要なインドネシアとの良好な経済関係を、東ティモール人の基本的な権利より優先させた西欧諸国・日本、そしてインドネシアが宗教対話上、重要な相手国であるバチカンなどはともに謀って、この暴挙を黙認しました。東ティモール紛争は国際社会の「共謀と黙認の構図」(松野明久・古沢希代子著『ナクロマ』より)の産物であった、と言われるゆえんです。

<東ティモール連帯個人史>
 1987年に日本カトリック正義と平和協議会内で東ティモール問題担当に任命された私は、当初、耳に入ってくる同国に関する情報が誇張でないかと感じ、1988年、友人のWさんと共に、同国の訪問を計画。当時の東ティモールは外界から遮断された密室で、入国を許可されていたのはそこで働く修道会の総長たちなど、ごく一部の人に限られていました。

 けれども様々なルートで入国許可を得、7月のある日、私たちは東ティモールのディリ空港に到着。早速、解放勢力への協力で有名だったカトリックのI修道会を訪問。応対に出たJ神父は私の身分と訪問目的を知ると、海外に人権状況を知らせてもらう好機到来とばかりに大喜びし、私たちを3日間の旅に連れ出しました。この間に見聞きしたこと―バウカウ軍事基地、拷問の館と言われるホテル・フランボヤン、フレティリンが激しいゲリラ活動を展開している山々、未亡人と孤児の世話をし切れないと嘆く教会の主任司祭、夜陰に乗じて私を訪れて拷問の実態を訴える男性―などなどは私が日本で得ていた東ティモール情報が正しかったことを証明するものでした。この時から、私の中で、この問題への取り組みがライフワークになっていきました。

 1991年に再び同国を訪ねました。この時は連帯活動をしていた数名の友人と一緒でした。宿泊先のホテルで調達してもらった車の運転手が名だたるスパイだったり、外出中にホテルの部屋が荒らされ持ち物などがすべて当局に調べ上げられたりする経験は不気味なものでした。

 この時の訪問の最大目的は、解放闘争最高指導者のシャナナ・グスマオに直接会ってインタビューすることで、同行者の一人はNHKのディレクター、Iさんでした。10日間余の滞在の最終日、もうインタビューはできないものと諦めていた私たちの下にM神父から連絡が入り「すぐに修道院玄関前のタクシーに乗り込んでください。シャナナに会えます」とのこと。すぐにIさんとWさんにこのミッションをお願いし、二人はインタビューに成功しました。けれども、日本に帰国後このフィルムをすぐに公表すると現地に及ぶ危険があまりにも大きいと判断したIさんはこの「特ダネ」を賢明にも公表されず、時を待たれました。

 その時は、訪問から半年、1991年11月12日に訪れたのです。それは東ティモール問題が広く世界に知れ渡る結果となった悲劇「サンタクルス虐殺事件」(1991年11月12日、首都ディリで独立を求めるデモ行進中の市民にインドネシア軍兵士が発砲し、大勢の死傷者が出た事件)だったのです。国際的批判が高まったこの事件についての国連本部での記者会見でIさん撮影のシャナナ・インタビューは世界に知られることになりました。この虐殺事件の犠牲者274名の中には、7月の訪問時に私達が出合った青年たちも多くいて、A~Zまで、つまりアルファベットすべての文字で始まる名が記された犠牲者名簿を見た時は、本当に胸が詰まりました。

 私たちカトリック正義と平和協議会の連帯活動は、日本最大の連帯組織『東ティモールに自由を!全国協議会』の構成団体としての活動でもありました。その内容は、下記の通りです。

1)東ティモール内部に対して:
現地から寄せられる要請に応える[例:人権侵害の状況を広く世界に知らせる/闘争に必要な短波ラジオその他の物品の差し入れ/人道援助物資を届ける/奨学金を贈るなどなど]

2)国連に対して:
非植民地化特別委員会での陳述/人権委員会でのロビー活動など

3)各国政府に対して:
インドネシア・アメリカ・ポルトガル・日本などの政府に対し、要請書や抗議文などを送る。特に各国の国会議員対象のロビーやデモの企画など

4)日本国民に対して:
東ティモール人によるスピーキングツアー実施や刊行物による情宣活動

5)メディアに対して:
東ティモール取材を呼びかける。取材に協力する。

6)教会に対して(カトリック正義と平和委員会の個別の活動):
人口の大半がカトリック教徒である東ティモールとの連帯を呼びかける

 特に短波ラジオを監視厳しい現地の武装組織に届けたことは、解放闘争にとって極めて重要な支援となり、今日でも、当時の闘争指導者などに会うと感謝されます。この間、日本人の現地訪問に絡む事件が発生し、一人の東ティモール青年の命が当局に狙われる事態となり、急きょ彼をインドネシアから脱出し、日本に来るように手配しました。この青年は南山大学留学生別科で日本語を学ぶことになり、そのため年間200万円以上の資金が必要となり、私達は『東ティモール支援ワイン販売』まで手掛けることになりました!カトリック教会では毎日、ミサが行われ、そのためにワインは必須です。全国の教会にミサ・ワインミの購入で東ティモール支援を呼びかけ、多額の支援金が集まりました。中には「ミサ・ワインミだけでなく、ポートワイン(ほぼ倍の値段)も送ってください」!と頼んでくる神父さんもいて、ありがたいことでした。

<東ティモールでの現在の活動>
 私が所属する修道会の当時の総長も強力に東ティモールを支援してきた人で、2002年に東ティモールが独立した後、何とかその建国にも協力したい、と小さいながら共同体(修道院)を現地に創設することになり、今日に至るまで合計11名の会員が派遣されてきました。現在は東ティモールの宗主国であったポルトガルをはじめ、ヨーロッパとアジア計5か国から送られた7人が働いています。

 宣教司牧・教育・開発・人権が主な活動分野ですが、私たちの修道会は特に世界各国で教育活動に従事しているので、東ティモールでも教育分野に力を入れています。5世紀間、他国の支配下で「愚民化政策」に苦しんできた東ティモール人は現在も基礎学力の不足に苦しんでいます。その上、独立後のベビーブームによる若年層の人口増加(東ティモールの総人口の6割までが25歳以下)で、一人の子どもが一日に学校で勉強できる時間は年ごとに減少。現在は一般の公立小学校の場合、2時間位しか学校にいることができない子供が多いです。教員の養成不足も深刻。私たちの修道院のあるバザルテテ小学校の場合、ポルトガル植民地下の時代、軍人だったのでポルトガル語が話せる、という理由だけで教員になっている人もいます。教授言語が公用語のポルトガル語であり、上記の例に挙げたような人以外の教員のほとんどが不慣れな言語であることから、教える方も学ぶ方も火の車です。そのうえ、教育に充てられるべき国家予算が、インフラ整備に回されているため、年間で印刷される教科書は生徒の数に追いつきません。課題山積の教育です。

 私は首都ディリの修道院に住んでいるので、大学生・高校生に英語と日本語を教えています。各クラスに40名くらいの生徒がいます。とても熱心です。学校での授業終了後の午後5時半ごろから始めるので、クラスが終わると夜の7時半。帰宅の交通手段がないので、近所に住む生徒以外は、先生である私がピックアップ用のハイラックスで自宅まで送るのです!夜のひんやりした空気の中、ハイラックスに乗って風に吹かれる。それに魅かれてこのクラスに来ている、という生徒も少なからずありそうです。

 教育以外に、開発(農業支援、マイクロクレジットなど)や人権問題への取組もしています。紛争が解決し、独立を達成し、建国が始まっても、圧政下、過酷な人権侵害に苦しんできた人々の心の傷は簡単には癒えません。現在の東ティモール政府は「さよなら紛争、ようこそ開発“Goodbye Conflict, Welcome Development”のスローガンの下、過去の人権侵害加害者の罪の追及はせず、インドネシアとの友好関係増進に励んでいます。来るインドネシア大統領選には、東ティモールへの軍事侵略に多大な責任のある(元陸軍戦略予備軍司令官の)プラボウォ・スビアント(Pravowo Subianto)が立候補しており、万一、彼が当選した場合の東ティモール人の心境を思い、懸念を深めているところです。

 21世紀初めの独立国、東ティモールの建国には、巨大な象に小さな蟻が立ち向かうかのごとき闘いであった解放闘争にも増して、多くの困難が立ちはだかっています。これからもこの厳しい道のりを人々とともに歩んでいきたいと望んでいます。


>> 当日のスライド(抜粋)をダウンロード

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